[Day 19] 陳留の最初の旗
一月 · 星が集まる | 約三分の読み

曹操(そうそう)が陳留(ちんりゅう)の父の家に戻り来たった。馬より下り行く前に、家の閾(しきい)を、ゆるりと望み見たり。洛陽の客間の内にて受けたる気とも異(こと)なり、中牟県の客店の前の気とも異なり、故郷の家の朝の気が、閾の上に留まりおりたのである。昨夕、ひと振の刀が、人の肩の上へと大きく降り行きおりたるその気とは、あまりに遠く離れおったのである。
父・曹嵩(そうすう)が庭へと走り出(い)でたり。息子の顔を見るに先(ま)ず、息子の馬の手綱のほうへと、手を伸ばしたり。「我が子(こ)よ。いかにしてここまで来たりたるか。」曹操が馬より下りて、父の前に、深く膝を屈(くっ)したり。
「父上。漢(かん)の社稷(しゃしょく)が傾きおり申す。それがしが一匹の馬を得て、この路をここまで引き来たり申せり。今、家の内の財産を解(と)きて、義兵(ぎへい)を募らんと存(ぞん)ずる。」
曹嵩の顔が、永く沈まりおったのである。息子の肩を、しずかに支(ささ)えたり。「我が家の財のみにては、大事を成(な)すに、足らざらん。この郷(さと)に衛弘(えいこう)と申す孝廉(こうれん)あり。財を軽んじ、義(ぎ)を貴ぶ人なり。彼の家勢がこの地方にて第一なれば、彼の助けを受け得(う)るならば、汝の志は、ひと路を開きゆく事と為らん。」
二日の後、曹操が家の内に小さき宴を整えて、衛弘を迎え奉りたり。衛弘は、額(ひたい)の広き人にてあった。眉(まゆ)が濃く、笑む時にても歯のよく見えざる人であった。閾を越えるや否や、先(ま)ず曹操の顔を永く望み見て、軽く首を垂れたり。
「孟徳(もうとく)。永らくより、汝の名を聞き来たりたり。それがしが汝の顔を直(じか)に見たるは、今日が初めてなり。今日この席に、我を呼び給いたる由(よし)を、先(ま)ず聞かれよ。」
曹操が端正に席より立ち上がりたり。杯がひと度も交わされざる前にてあった。「漢の朝廷には、もはや主(あるじ)あらず。董卓(とうたく)が権を専(もっぱら)にして、君を辱(はずかし)め、民を害(がい)するに、天下これに歯を切(き)りつつ申す。それがし力を尽くして、社稷を扶(たす)け持たんと致せども、我が力は、ひと夫の力にも過ぎ申さず。公(こう)が忠義(ちゅうぎ)の人なりと聞きたれば、今日、ひと度の請(こい)を差し上げ申さん。」
衛弘が永く沈黙せざりき。席より立ち上がりて、曹操のほうへと深く腰を屈(かが)めたり。「孟徳。この心を、この老(お)いの者は、永らくより抱きおりたり。ただ、我が心を受けて呉るる英雄に、いまだ出会いたる事無かりたるのみにござる。汝に大いなる志ありとせば、この家門の全(すべ)ての財産を、今日、汝の前に差し置き奉らん。」
曹操が大きく膝を屈したり。今日の彼の膝は、洛陽相府の寝床の前にて屈したる膝とは、ひと結が異なりおったのである。

その夜、陳留の庭の内側にて、ひと張の白き旗が立て置かれたり。旗の片方の面に、二字が大きく書かれおった。「忠義」(ちゅうぎ)。その旗の立ち上がりたる翌(あく)る日より、陳留の街に、奇妙なる風が吹き始めたり。見知らぬ若き男たちが、ひと日に数十人、翌日には数百人、三日(みっか)の過ぎ行く頃には、ひと日に千人ずつ、陳留の路地を、ひと方向へと歩み上り来たった。彼らの携(たずさ)え持ちたる物は、刀にあらず、概(おおむ)ね、ひと振の古き鋤(すき)か、藁鞋(わらぐつ)の束にてあった。されど、彼らの歩みのしずけさは、鋤よりも、重かりき。
陳留太守(たいしゅ)張邈(ちょうばく)が、直(じか)に曹操の家へと尋(たず)ね来たった。陳留の官(つかさ)の兵器庫(へいきこ)の戸を開きて差し上げんとの約束であった。洛陽の旧き同志、司徒王允(しとおういん)の名にて、密(ひそ)かなる檄文(げきぶん)が下り来たった。曹操の檄文の最初の草稿が、今宵、初めて、紙の上に記されて下り行きつつあった。ひと文字の末にて、墨が震えおりたれども、文字のひと結は、低く降り立ちおったのである。
Book 1 の十九度目の夜が、陳留の庭の白き旗の下にて、しずかに深まりゆきつつあった。首義旗(しゅぎき、最初の義の旗)の三字が、見知らぬ若き男たちの歩みのしずけさが、鋤よりも重き姿勢の種子として、植えつけられつつあったのである。Day 18 にて、鏡が先ず回りたる暁が、今宵、白き旗の二字の前のほうへと、渡り来たりおったのである。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
庭の内側に立て置かれたるひと張の白き旗、その二字の前のほうに、見知らぬ若き男たちが、しずかに集(つど)い立つ夜があり申す。手に携(たずさ)うる物が刀にあらず、ひと振の古き鋤なれども、その鋤の重みよりも、いっそう重き、歩みのしずけさが在る席にござる。今宵、貴方の庭の内側にも、見知らぬ歩みのしずけさが、鋤の重みよりも、いっそう重く、集(つど)いゆく席が、もしやおありにならぬか。そのしずけさの結を、ひと結いっそうしずかに覗き見られてはいかがであろう。
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