[Day 33] 鳳儀亭のひと足
二月 · 主なき刀 | 約三分の読み

数日の過ぎたる朝、董卓(とうたく)が車を駆りて、長安宮へと、政(まつりごと)を論ぜんとして、入り行きたり。呂布(りょふ)が常のごとく画戟(がげき)を取りて、その後ろに、随(したが)いたり。董卓が献帝(けんてい)の前にて、談笑(だんしょう)を永く打(う)ち広げ給う間、呂布の両眼が、宮門の外の天を、望み見たり。画戟の柄を、再び握りたり。宮門の外へと、ひと歩み退(しりぞ)きて、馬に乗り、相府のほうへと、頭を回したり。
馬を相府の前に繋(つな)ぎ、画戟を取りたるままに、後堂(こうどう)へと直(じか)に歩み入り行きたり。侍女ひと人が、彼の前を、阻(はば)まんと致したれども、顔を見て、後ろへと退きたり。後堂の内側にて、貂蟬(ちょうせん)が、彼の足音を、先(ま)ず聞き分けたり。半(なか)ば戸を開きて、低く囁きたり。「将軍。貴方様は、後園の鳳儀亭(ほうぎてい)の傍らにて、それがしを、お待ち給え。」呂布が首肯して、後園のほうへと、歩み出(い)でたり。
鳳儀亭は、相府の後園のひと角に置かれたる、小さき亭にてあった。柱の間より、曲(きょく)の欄干(らんかん)が、廻(めぐ)らされおり、欄干の向こうに、蓮(はす)の池が、しずかに開かれおったのである。呂布が欄干の傍らに、斜(なな)めに立ちたり。画戟の柄を、右手にて、握り直したり。
暫(しば)しの後、花樹(はなぎ)の枝を、押し分け、柳(やなぎ)の枝を、退(しりぞ)けつつ、貂蟬が歩み出(い)でたり。彼女の歩みが、亭の下にて、止まりたり。彼女が、呂布の顔(かんばせ)を、仰ぎ見たり。両眼より、涙が先(ま)ず降り来たった。
「賤婢(せんぴ)、王司徒の真(まこと)の娘にあらざれども、御方様(おかたさま)は、それがしを、貴方様の娘のごとくに、お育(はぐく)み給いたり。将軍に、お目に掛かりたる後より、将軍の箒(ほうき)と塵取(ちりとり)を取りて、お仕(つか)え申し上げんとの許しを、頂戴し奉りてよりは、この身のひと生涯の願いが、すでに、皆な、成り遂(と)げられたりと、思い申し奉りたり。されど、思いがけずに、太師(たいし)が、心を不良(ふりょう)に、お動かし給いて、この身を、汚(けが)し給いたり。この身は、いっそ、その席にて、死せん事を願い奉りたれども、ただ、ひと事の故に、未だ、死し得ざりたり。将軍に、別れの言葉を、ひと度も、お上り申し上げ得ざりたるが故にござる。」
貂蟬の手が、曲の欄干を、握りしめたり。身が、欄干の向こうの池のほうへと、ひと足、傾きたり。ひと足。そのひと足が、障子紙ひと枚の厚さが、終(つい)にいずこまで、薄く成り得るかを、今暁、見せ呉るる席にてあった。
呂布が遅れて、身を投げて、彼女を抱きたり。画戟が、欄干の傍らの石の上に、ぎらりと落ちたり。彼の片手が、貂蟬の腰の後ろにて、堅く絡(から)みたり。「我は、汝の心を、永らくより、知りおりたり。ただ、ひと度も、言を交わし得ざりたるが、恨みなりたるのみ。」彼の声が、亭の屋根の下にて、崩(くず)れたり。

貂蟬が、呂布の衣の裾を、引き寄せたり。「賤婢、この生にて、貴方様の妻と、為り得ざるならば、来世(らいせ)を、お契(ちぎ)り給え。」呂布が、頭を横に、振りたり。「我、この生にて、汝を妻と為し得ざるならば、それは、英雄にあらず。」
貂蟬が、涙を、いっそうに、降り落としたり。「賤婢、ひと日を、ひと年のごとく、過ごし居(お)り申す。将軍が、ひと度のみ、それがしを、憐(あわ)れみ給いて、お救い給え。」呂布が、低く息を吐きたり。「我、今、間(ひま)を伺いて、暫し、出(い)で来たる路にあり。老いたる賊が、我が席を、空(から)にしたるを、知らば、疑い申さん故に、先(ま)ずは、速やかに、戻り行かねばならぬ。」
貂蟬が、その衣の裾を、いっそうに、引き寄せたり。「将軍が、かほどに、その老いたる賊を、お恐れ給わば、この身が、天の日を、見得る日は、永遠(とこしえ)にあるまじ。」
呂布が、足を、止めたり。画戟を、取り上げざりき。ただ、身を、欄干のほうへと、再び、傾けたり。「ゆるりと、良き計(はかりごと)を、図り得るよう、お許し給え。」貂蟬が、息を整えつつ、首肯したり。されど、続く一節が、亭の気を、後ろのほうへと、押したり。
「賤婢、深き閨(ねや)の内側にて、将軍のお名を、雷のごとく、耳に充(み)ちて、聞き来たり申せり。当代の唯ひと人と、知りおりたるに、思いがけず、今日、将軍が、別なる人の手の下にて、囚(とら)われ居(お)り給うを、見奉り申せり。」
そのひと節の終わりたる時、貂蟬の両眼より、涙が、雨粒のごとく、落ちたり。呂布の顔(かんばせ)の全(すべ)てに、恥(はじ)が、満ちたり。画戟を、片手にて支(ささ)えたるままに、もう片手にて、貂蟬を、いっそうしずかに、抱き締めたり。二人が、亭の曲の欄干の下にて、寄り添い、寄り添いたるままに、永らく、互いを、放(はな)し得ざりおったのである。
鳳儀亭の下のひと足の距たりが、昨日の朝の相府の寝所の障子紙ひと枚の距たりが、ひと日の間に、いっそうに薄く成りたる席にてあった。主(あるじ)無き刀ひと振が、亭の曲の欄干の下にて、二人の抱擁(ほうよう)の距たりほどの内側にて、初めて、己が柄(つか)の熱(ねつ)さを、耳に、戻し受け取りつつあったのである。
Book 2 の三度目の朝が、鳳儀亭の曲の欄干の下にて、しずかに深まりゆきつつあった。鳳儀歩(ほうぎほ、鳳儀亭のひと足)の三字が、障子紙ひと枚の厚さが、ひと足の距たりへと、薄く成りたる息の種子として、植えつけられつつあったのである。Day 32 の 一戟距(いちげききょ)の戟の長さが、今朝、ひと足の長さへと、いっそう狭まりおったのである。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
障子紙ひと枚の厚さが、ひと足の長さへと、いっそうに薄く成り行く朝があり申す。その薄まりのひと結が、欄干の向こうの池のほうへと、傾きたるひと足の上に、しずかに、降り立つ席にござる。主無き刀ひと振の柄の熱さが、耳に、戻し受け取らるる姿勢として、固まり行く結にござる。今朝、貴方の手の欄干の向こうのほうにも、傾きたるひと足の距たりが、もしやおありにならぬか。その薄まりの結を、ひと結いっそうしずかに覗き見られてはいかがであろう。
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