[Day 47] 曹操の鬚
二月 · 主なき刀 | 約三分の読み

濮陽(ぼくよう)の火の夜が、過ぎたる後、曹操(そうそう)が、兗州の本陣に戻り来たりて、己が長き鬚(ひげ)を、ひと掌(つか)みほど、短く切りたり。昨夕、手のひらの内側に、隠(かく)されたる鬚の結が、呂布の眼を、欺(あざむ)きおったのである。今朝、曹操が、その鬚の結を、いっそう短く、別なる計策の道具へと、移し置きたのである。
曹操が、謀士(ぼうし)らを呼びて、計策を、取り出したり。「昨夕、我が鬚が、我を、救いたり。今朝、我が鬚が、呂布を、捕(とら)え申さん。この曹操が、昨夕の火の中にて、焼け死せりとの風聞を、お流(なが)し給え。呂布の耳に、その風聞が、届かば、呂布が、軽騎(けいき)にて、我が本陣を、襲わんと、駆け来たるべし。その時、我が鬚が、隠れたる伏兵の真ん中より、再び、出(い)でて、呂布を、迎え申さん。」
劉曄(りゅうよう)が、頭を、深く、垂れたり。「主公の鬚が、主公の最初の計策にして、二番目の計策にてござる。ひと本の鬚が、二人の運命を、ひと結に、貫(つらぬ)く席にて、ござる。」
曹操の風聞が、濮陽のほうへと、渡り行きたり。所々(ところどころ)にて、「曹操が、昨夕の火の中にて、焼け死したり」との節が、巡(めぐ)り始めたり。呂布の本陣にて、陳宮(ちんきゅう)が、低く、ひと言を、上りたり。「主公。風聞が、あまりに速やかに、巡りおり申す。疑わしき結に、ござる。」されど、呂布の両眼が、すでに、風聞の炎(ほのお)に、濡れおったのである。「曹操が、焼け死せらば、その本陣もまた、主無くして、解け置かれおるべし。軽騎にて、襲いて、本陣を、得(え)ん。」
陳宮が、溜息を、吐きたり。呂布が、軽騎五千を、率(ひき)いて、曹操の本陣のほうへと、駆け来たった。

本陣の関門が、空(から)にてあった。呂布が、勢いを、駆りて、関門の内側へと、駆け入り行きたり。そのひと刹那、四方より、再び、太鼓の音が、響きたり。昨夕の濮陽の火と、同じ流儀の伏兵が、今朝、曹操の本陣の内側に、敷かれおったのである。鬚の結が、別なる方向へと、移されたる伏兵にてあった。
曹操が、本陣の柱の後ろより、歩み出(い)でたり。彼の顎の下の鬚が、ひと掌み、短く成りおったのである。彼が、馬の上の呂布を、望み見つつ、低く、笑みたり。「奉先(ほうせん)。昨夕、汝の眼が、我が鬚を、読み得ざりたり。今朝、汝の耳が、我が鬚の風聞を、再び、読み得ざりたり。ひと鬚の結が、汝の両眼と、両耳とを、ひと度に、欺きたる席なるぞ。」
呂布の顔(かんばせ)が、黒く、堅く成りたり。方天画戟(ほうてんがげき)を、上り掲げて、曹操の前へと、駆け入り行きたり。されど、本陣の伏兵の甲士(こうし)らが、四方より、呂布の軽騎を、囲(かこ)みたり。典韋(てんい)と許褚(きょちょ)とが、同時に、前へと出(い)でて、方天画戟の前を、阻(はば)みたり。呂布が、歯を噛みしめて、馬の頭を、回したり。五千の軽騎の中の二千が、この本陣に、遺(のこ)り、残(のこ)りが、濮陽のほうへと、逃げ行きたり。
曹操が、大いに、笑みたり。己が鬚を、片手にて、撫でたり。「明日、汝の方天画戟が、我が鬚の前のほうにて、再び、回り行く事と、為らん。」
Book 2 の十七度目の朝が、曹操の本陣の柱の後ろにて、しずかに、深まりゆきつつあった。一髭計(いっしけい、ひと鬚の計策)の三字が、ひと本の鬚が、二人の運命を、貫く息の種子として、植えつけられつつあったのである。Day 46 の 濮陽火(ぼくようか)の火の中の手のひらの隠しが、今朝、風聞の火の内側へと、渡り来たりおったのである。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
ひと本の鬚が、ひと人の最初の計策にして、二番目の計策と、為(な)りゆく朝があり申す。ひと結が、両眼を、欺き、別なる結が、両耳を、欺きたる席にござる。今朝、貴方の手の小さき結にも、二方向の欺きが、もしや、ひと度に、掛けられおりてはおらぬか。その結の結を、ひと結いっそうしずかに、覗き見られてはいかがであろう。
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