[Day 27] 井戸の中のひと点の光
一月 · 星が集まる | 約三分の読み

孫堅(そんけん)が井戸より玉璽(ぎょくじ)を引き上げて、懐の内側に納めたる後、建章殿(けんしょうでん)の跡の上の軍営の灯火(ともしび)の下にて、古き副将の程普(ていふ)を、しずかに呼びたり。「程徳謀(ていとくぼう)。この玉を確かめてくれよ。」程普がその玉を、両手にて受けて、見たり。彼の顔(かんばせ)が、八字の上にて、白く堅く成りたり。
「主公。これは、伝国玉璽(でんこくぎょくじ)にござる。古(いにしえ)の楚(そ)の卞和(べんか)が、荊山(けいざん)の麓(ふもと)にて、鳳凰(ほうおう)が石の上に座(ざ)しおるを見て、掘り取りて捧げたる石にてあり、秦(しん)二十六年に、玉工がこの石を彫りて、玉璽と為し、丞相(じょうしょう)李斯(りし)が、この上に八字を篆書(てんしょ)にて、書き入れたりき。秦の始皇帝(しこうてい)以後、この玉が天子の標(しるし)と為り、王莽(おうもう)の乱の時、皇太后がこの玉を王尋(おうじん)に投げて、ひと隅が欠けたり、その席を金にて埋めおったのである。光武帝(こうぶてい)が宜陽(ぎよう)にてこの宝(たから)を見出し、今日まで伝わり来たりおったのである。」
程普が声を、ひと結低くしたり。「近頃(ちかごろ)、十常侍(じゅうじょうじ)の乱の時、幼き皇帝が北邙(ほくぼう)へと身を避け給い、戻り行き給わりたる時に、この玉が失(う)せたりと聞きたり。今、天がこの玉を、主公に下し給いたるなり。主公には必ず、九五(きゅうご、天子の席)の気あらせ給う。この席は、永くは留まり給うべき席にあらず。速やかに江東(こうとう)に戻り給いて、別に大事を、お図り給え。」
孫堅の指先が、玉の上にて、いっそう永く留まりたり。玉を再び朱紅(しゅこう)の小函(こばこ)の内側に納めて、絹の袋にて慎重に包みたり。さらに、胸の内側の最も深き席に、納め置きたり。「明日、発(た)たん。病を口実(こうじつ)に、盟主に別れを告げて、戻り行かん。」程普が首を垂れて、左右の兵らに、口を堅く守らしめたり。
その夜が更け行きおりたのである。井戸の中のひと点の光は、すでに収(おさ)められおった。されど、その光を、今宵、この軍営の内のひと人は、逃さざりき。その人は、孫堅の軍営のひと兵にてあった。郷里が袁紹(えんしょう)の郷里と同じ人にてあった。今宵、このひと点の光を、己(みずか)らの出世の席へと、変じてみたかりき。しずかに軍営の裏門を越えて、洛陽外の袁紹の陣営のほうへと、馬を駆りたのである。
暁(あかつき)の頃、袁紹の幕屋の内にて、ひと張の小さき金(きん)が、行き交わりたり。袁紹の顔が、その金の下にて、大いに笑みたり。兵を軍営の内に、しずかに留め置きたり。さらに、明けたる朝、孫堅を己が前に呼びて、このひと事を、直(じか)に問うてみんと致したり。己(みずか)ら大いに用ゆる字(あざな)「本初(ほんしょ)」の下にて、今宵、すでにひと通の書翰(しょかん)の最初の行を、頭の内側に記し置きおったのである。書翰の最初の行は、簡(かん)にてあった。「路の上にて、彼を阻(はば)め。その玉を、汝の境を越えしむること勿(な)かれ。」受信地は、荊州(けいしゅう)刺史(しし)にてあった。

明けたる日の朝、袁紹が孫堅を、盟主の幕屋の内へと、呼びたり。袁紹の顔に、笑みが軽く掛かりおったのである。「文台(ぶんだい、孫堅の字)。聞くところによれば、昨日、洛陽宮の跡にて、奇異(きい)なる物が出(い)でたりと申す。盟主として、その物を、見申さねばならず。」
孫堅の両眼が、細く成りたり。「無きに在(おわ)し申す。それがし、何ごとも拾いたる事、無きに在し申す。」
袁紹が笑みたり。「文台。天に誓い給え。万一、真(まこと)に無くば、天が汝を、叱(しか)り給わん。」
孫堅が天を仰ぎて、誓いたり。「万一、それがしがこの物を隠したらば、別なる日、刀刃(とうじん)の下にて、落ち申さん。」その誓いの末にて、孫堅の額に、冷えたる汗が、上り来たりたり。袁紹が覚(さと)りたれども、ひと言も取り出さざりき。ひと席の二人の両眼が、同じ天を望み見おりたれども、二つの天の結が、すでに二岐(ふたまた)に分かたれおったのである。
その朝のひと息の後、孫堅が己が軍営をしずかに畳みて、江東のほうへと、南下し始めたり。ひと匹の馬の背の上に、朱紅の小函が、絹の袋の内側にて、しずかに動きおったのである。袁紹の書翰の最初の行が、荊州刺史のもとへと、先(ま)ず渡り行きおったのである。孫堅の路の上に、ひと度の待ちが、境界線の向こうのほうにて、しずかに立ちおったのである。
Book 1 の二十七度目の夜が、洛陽の井戸の口と、南の路の境界線との二席にて、しずかに深まりゆきつつあった。井中光(せいちゅうこう、井戸の中のひと点の光)の三字が、玉璽の光が、ひと人の懐の内側に入りたる後、別なる人の幕屋の内側の書翰の最初の行へと、渡り行くひと息の種子として、植えつけられつつあったのである。Day 26 の 灰前独(かいぜんどく)の「独」のひと文字が、今宵、玉の「璽」のひと文字へと、連なりつつあった。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
井戸の中のひと点の光が、ひと人の懐の内側に入り行きたる夜があり申す。その光の渡り行きは、ひと人の誓いと、別なる人の書翰の最初の行との間(はざま)に、共に置かれおるひと息にござる。今宵、貴方の懐の内側にも、口の外に取り出さざりたる、ひと点の光が、もしやおありにならぬか。その光の渡り行きの結を、ひと結いっそうしずかに覗き見られてはいかがであろう。
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